「植村直己」さん

「先人たちの底力 知恵泉」
で特集されます。
 
 
「植村直己」さん
と言えば
「5大陸最高峰登頂」

「北極圏12000キロ犬ぞり走破」
などの多くの偉業を成し遂げられています。

 
 
今回は
そんな
「植村直己」さん
にフォーカスを当てて
調べてみたいと思います。
 

Sponsored Links

 

植村直己さんのプロフィール

 


 
 
植村直己さん
といえば
「登山家」
として有名です。
 
 
少年の頃から
同じ地方にいる
「登山家の加藤文太郎」
という人に憧れ、
登山にのめりこんだようです。
 
 
wikipediaによれば

学校行事で登った蘇武岳を皮切りに但馬の嶺々への山行を始める。
兵庫県立豊岡高等学校卒業後、
豊岡市の新日本運輸(現在は廃業)に就職。
翌1960年に明治大学農学部農産製造学科に入学、
山岳部へ入部してからは登山に没頭


引用元:wikipedia
 
 
一つ気になったのは
現在の
「埼玉県立豊岡高等学校」
には
「登山部」
がありますが
 
 
「兵庫県立豊岡高等学校」
には
「登山部」や「山岳部」
等というものが存在しません。

 
 
そこで、
「植村直己」さん

「部活」

「登山部」
がなくても
「高校時代も登山をされていたんですかね?」
 
 
最初は日本の山でしたが
「いつから海外の山に興味を持っていたのでしょうか?」
 
 
更に調べてみると
「同じ部の同僚が
アラスカ旅行に行って氷河
を見てきた」

 
 
という話を聞いてから
「海外の山にも憧れを持った」
感じです。
 
 
大学時代は、
「頻繁に転倒して転がる」
という理由で
「どんぐり」とあだ名を
つけられていました。

 
 
主な登山歴

1965年4月23日:ゴジュンバ・カン登頂
1966年7月25日:モンブラン単独登頂
1966年10月24日:キリマンジャロ単独登頂
1968年2月5日:アコンカグア単独登頂
1970年5月11日 – エベレスト登頂(松浦輝男とともに日本人初登頂)
1970年8月26日 – マッキンリー単独初登頂(世界初の五大陸最高峰登頂成功)
1971年1月1日 – 冬季グランド・ジョラス北壁完登
1976年7月 – エルブルスに登頂
1984年2月12日 – マッキンリー冬期単独登頂(世界初)


 
 
その他にも
「南極大陸3000m横断」

「犬ぞりたいで史上初の北極点に到達」
したりしています。
 
 
私が
「南極」
と聞くと思い浮かべるのは
小学生時代にみた
やっぱり「南極物語」

「タローとジロー」


を思い浮かべてしまいます。
 
 
「イッテQのイモト」
等を見てると
 
 
「いつ命をおとしてもおかしくない」
ようなところを
「平気で昇っていく登山家の人」
って
「正直、怖いもの知らず」
という印象をもちますが
 
 
「植村直己」さん

「人一倍臆病な性格」

体力には自信があったようですが
それ以外に関しては
かなりの劣等感を持たれていた

というのが驚きでした。
 
 
こんな名言があります。

不安な時は小さなことでもいい、今できる行動を起こすこと


 

Sponsored Links

 

植村直己はその後発見されて生きている?

 
植村直己さんは
アラスカにある
「北米大陸最高峰」

「マッキンリー冬季単独登頂」
を最後に行方が分からなくなっていると
言われています。

 
 
「植村直己」
と検索すると
「植村直己 発見」
「植村直己 生きてる」
さらに
「植村直己 発見」
と検索すると
「植村直己 発見された」
「植村直己 発見される」
という言葉が出てきます。
 
 
これはもしかして
「どこかで生きている姿が発見されたのか?」
と思いましたが
 
 
よく調べてみると
「植村直己さんのなくなった姿が発見された」
という報道がありましたが
「それが間違いであり」
 
 
「まだ、なくなった姿が発見されていないので
生きているかもしれない」

という推測でした。
 
 
おそらく、
「クレバスに落ちた」

「雪崩等に巻き込まれたのではないか」
と言われています。
 
 
生きていたとしたら
現在77歳位になられています。

 
 
家族や親族にしたら
なくなっていても
「早く発見」
されて
「手元に戻ってきて欲しい」

という思いでしょう。
 

最後の交信後が謎で不可解

 
「植村直己」
で検索すると
「植村直己 最後」
という言葉が出てきます。
 
 
更に
「植村直己 最後」
で検索すると
「植村直己 最後の交信」
「植村直己 最後 謎」

という言葉が出てきます。
 
 
「これは一体どういう事なのか?」
 
 
「植村直己さんの最後の交信」
というのは
 
 
次のようになっています。
(現在位置を教えてください。)
私がいるのはサウスピークからずっとトラバースして...標高...えーあとは...
 

(18000ですか?19000ですか?どうぞ。)
20000フィート
(標高を教えてください。)
えー私もよくわかりませんが約20000...
(よく聞き取れませんもう一度お願いします。)
20000、20000フィートです、どうぞ。
 
20000、20000、20000フィート。
(植村さん、応答願います。)


引用元:https://goo.gl/f9iW8o
 
 
これが
「2月13日午前11時の交信記録」
で最後となっています。
 
 
しかしながら
「最後の交信後に不可解な謎」
があるようです。
 
 
こんな記事を発見!

悪天候で飛行機も飛べず、
ようやく飛行機が飛んだのは2月15日だったが植村を発見できなかった。
 
翌16日再度飛んだ彼は、
4900メートルの雪洞から半身を出して手を振る植村を発見した。
植村との事前の打ち合わせで救助が要らない場合は手を振る、
必要な場合は手を振った後座り込んで動かないということになっていた。
植村はセスナが上空を飛ぶ度に手を振ったので、
彼は大丈夫だと判断し引き返した。
しかし植村は何時まで経っても現れない。
 
それで「植村直己第一次救援隊」が明治大学山岳部炉辺会により組織され、
24日に成田を発った。
そして3月5日にアタックキャンプとして使ったであろう、
5200Mに作られた雪洞を発見する。
そして彼らは植村が此のアタックキャンプに戻れなかったことを確信する。
何故ならそこにはほとんどの装備が雪を被った状態で残っていたからだ。
 
アタックに必要な最低限の装備を持ってここを出発した。
 
(4900Mの雪洞にはカリブーの肉、ホワイトガソリンが1ガロン、ビスケット、インスタントコーヒーなどが残されていた。)


 
 
おかしいですね。
5200mの雪洞を見つけられなかったとすれば
普通考えると
「5200m上の地点で遭難した」
と考えるのが普通です。
 
 
では、
5200mより下にいた
「飛行機のパイロットが発見した植村さんとは?」

 
 
次の3つの説があります。
・幽霊を見たのではないか?
・後日、パイロットが誤認した
・上記のように残されていたものからそこにいた

 
 
いずれにしても、
最後の交信後の行動がどうだったのか
謎であり不可解な事が多いようです。
 
 
「真相はどのようになっているのか?」
今後、解明されていくのかが気になるところです。
 
最後まで読んで頂きありがとうございます。

Sponsored Links
Sponsored Links